「雨中石山寺」3


 (ソッチヘ行ッテ何モナケレバ……馬鹿ジャン。)
 《あいつ》が現れた。
 無駄こそ人生の宝! などと考えはしなかったが、私は意外にも、女子大生とは逆の方へ歩き出した。なぜと訊かれても困る。自分でも判らない。三月(みつき)前、三井寺本堂の縁の下を撮りまくって一枚も物にしなかった男である。
 (変質者ニ近イ。コノ男、危険!)
 本堂の横へ廻った。変わったものはない。多数の古い絵馬が並んでいるくらいだ。緑が多い。

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 先はなんとなく小暗く、突き当たりにわびしげな小屋がある。順路、道という感じがまったくしない。
 私はさらに進んだ。
(ダカラぁ…! ヤメロぉ! ダレガ見テモオカシイ。そして、怪シイ!)
 突き当たりにあったのは厠であった。
 そこで本堂の真裏に出た。すると意外にもコンクリートで舗装した幅広の道が本堂の裏口まで上っている。察するに、本堂への資材搬入の道のようだ。大型は無理にしても4頓トラックは入って来らる。
 ホッとする。
 (サア、戻ルノガ賢明トイウモノダ! 戻レ!)
 そろそろ足が痛み始めていた。
 ふと気づくと右手に大木が……。太い根が露わに見えている。
 (アア! コノ男、マタ危険域ニ入リカケテイル!)
 大木の後ろに細い道。傍に「子育観音」とある。
 案内図を引っ張り出すと、書いてない。
 どれほど行けばあるのか想像がつかない。でも、行っちゃう。
 (本当ニコノ男ハ訳ガ解ラン。子育テヲ放棄シタヨウナ自分ダロ。ナンデ子育観音ヘ行ク?! )

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 道は細く、木の根が張りだし、至るところ水浸し、ぬかるみもある。
 (足ニひびアル人間ガ来ル所デハアルマイ!? マトモナ人間ナラ、コンナ土砂降リニ来ルヨウナ 所デハナイ!
  シカモ裸足ニごむ草履! ナントイウ恰好!
  早ク引キ返セ!)
 痛む足にこたえた。
 (……言ワンコッチャナイ!)
 そろり、そろり歩く。ときどき立ち止まる。5分ほどすると(晴れていれば普通の人でわずか1分程度の距離だろうか)、地面は一層木の根が張り、何本もの欅の大木が立つ広い空間へ出た。雨天に木漏れ日でもあるまい、明るさからほど遠い色を帯びている。全体が深い緑に包み込まれていた。その緑が肌にべた付くかのように感じる。ダークグリーンの、濡れる胎内。多分に、激しく降る雨のせいだろう、これまで見たこともない光景、不思議な雰囲気だ。
 私は目を奪われていた。欅があまりにも美しいのだ。惚れ惚れしながら見とれていたと言っていい。
 (コノ男、ヤッパリ変!)

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 足下に気遣いながらその空間に足を踏み入れた。目指すは大木の下…。
 ―― むン?
 四五歩歩むとなにか感覚が変わったのが分かる。辺りより一層薄暗かった右の大きな巖蔭がわずかに明るんでくる。錯覚ではない。確かに明るくなってくる。不思議に思いながら注視して進む。そして微かに苦笑がこぼれた。

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 それを見た最初の笑みは、
 ―― 子ども騙しみたいや、というものだった。
 ―― 嬰児(みどりご)のためのキンキラに飾り立てたガラガラかぁ?!
 ふと我が子が檻のような囲いの付いたベビー・ベッドで仰向けになっている顔とともに、オルゴールの音につれて回っていたメリーの光景が遠のくように浮かんだ。
 ―― これが子育観音かいなぁ
 (ダカラ言ワンコッチャナイ!)
 そんな声が聞こえてくる。
 ばかばかしくて目を木に戻して進んだ。しかし、気になるものが残像のように残った。
 ―― 巌だ
 木を撮る前にまず子育観音の周りを取り巻いている巌を何枚か撮った。

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 そしてあらためて、観音が三方を巌に守られるようにして立っているのを見た。やや下がって見ると、さっきと印象が変わった。両側にお茶のペットボトルがおかしい。
 私は心中微笑んだ。
 シャッターを切った。

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 なぜだか判らないが捨てられない気がしてきた。
 大きな欅もその根っこもカメラに収めた。
 私は思わぬ拾いものをした気になって、ニンマリしながら辺りを見渡した。去りがけにもう一枚カメラに収めることにした。巌と欅の中に子育観音…。

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 この光景には二度と遇うことができまいと信じた。今日、この雨中の、唯今の自分だけの感覚に終わるに違いないと思えた。すべて雨の御陰だ。
 下り道は来るときの道より狭く急だった。傘が木々の枝に遮られる。カメラがいたく濡れていく。さっきの笑みは消え、情けなくなってくる。足下も悪い。うっかり滑ろうものなら確実に入院ものだ。大袈裟でなく事実医者から重々注意を促されている。あることがきっかけで踝から下が骨粗鬆症状態なのだ。
 (馬鹿ガ!)
 あいつがまた私に噛みついてくる。

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 大きな阿屋風の大観亭が藤棚の横に間近く見えるのにおそろしく時間がかかる。夫婦らしい中年の一組が怪訝そうに私を見る。
 (恥ズカシイっ!)
 仕方あるまい。―― 怪しむにゃったら怪しめ 嘲うにゃったら嘲え カメラも 一遍や二遍濡れてあかんようになんにゃたら安もんじゃ!
 開き直り、毒つくように呟きながら下る。
 通路に降り立ったときにはさすがに
 「無事でよかったあ」と、汗とともに思わず声が出ていた。
 (本当ニ良カッタ。コレデ何カアッタラ笑イモンダ。)
 大観亭でやっと傘が手から離れる。ほっと一息つく。
 (急ゲ! ココマデドレホド時間ガカカッテイルト思ウ!)
 無憂園でのんびりしている場合ではなかったが、去りゆく春の、いささか殺風景になりはじめている雨の庭園をしばらく眺めた。

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 ―― これはこれなりに風情がある
 考えてみると2時間近い刻(とき)が流れている。まだ半分も見てはいない。どうなることか目途も立たないまま藤棚を眺め、
 ―― 藤もあとしばらくかぁ
 撮る気になって腰を上げた。
 近づくと、房が短い。「紫花美短 ムラサキカビタン 」というらしい。
 ―― もっと房が長いとええのに……
 勝手な希望をこころで呟く。どこかに「長い房ある藤の花こそ…」という固定観念ができている。だからか、
 ―― 壊したい
 という欲求が動いた。が、うまく撮れない。
 (オウお、立派ナ写真家サン気取リダコト!)
 苦戦。

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 諦めて無憂園内を巡ることにした。
 春は足音を立てて去っていくようだった。

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 五七五遊び。

   夏来いと散ってなお咲くさくらかな
   春雨や散り敷く花にうちふぶく
   みわたせば花かげもなし甃のうえ uttiy

 ―― なんて やってる場合ではない
 (ソウ。閉門ハ四時半! 刻ハオ前ヲ待タン!)
 はやり多少は急く気になる。
(ヤットカヨぉ!)
 ―― 意見一致。

 本堂の裏道伝いに戻ると三十八社と経蔵を通り過ぎ多宝塔を目指した。