■ 義仲寺 ■ - 6 -

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       翁堂の裏にはいくつもの墓と句碑が並んでいる。
       ごった返していると言えば過言だが、
       決して広くない空間だけにそんな印象も決して嘘にならない。



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       特に目立って大きいのは 保田與重郎 の墓である。
       その横にやはり大きな、これは 蝶夢 の墓。
       寺内にある「粟津文庫」を創設した人物であり、
       その半生を芭蕉の顕彰と蕉門俳諧の再興に捧げている。
       一見新しい墓のようであり、後に、
       彼の努力を称える人が作ったのであろう。
       それを思うと保田の墓は大きすぎる。
       本来、墓などというものはなくてもていいようなものなのだが、
       しかし、遺族の気持ちがそれを許さない――それが、
       情というものらしい。
       あるいは故人を追慕する人たちが、
       お節介にも、それを形あるものにしたがる。
       人の死は、もはやその死さえ、死後は生者のものと化し、
       死者とは無縁のものとなる。
       保田は、あの世でなんと思っているだろう。
       死処墳墓に拘るほど信仰厚い近代人だったのだろうか。
       それは知らぬが、芭蕉は恐らく信仰厚い人であったろう。
       死処墳墓は大事な問題だった。
       彼は知っていた、
       井原西鶴が誰にも看取られずに逝ったことを。
       死して数日、なお、その死が知られなかったということを。
       芭蕉は、俳諧師として立つとき、既に「死」を、
       有り体に言えば、野垂れ死にをも覚悟していたろう。
       後の小林一茶は、野垂れ死にを懼れ、故郷へ帰って、
       血みどろの遺産相続の争いに身を投じて悔いなかった。
       芭蕉は、覚悟の上で闘いへと出た。
       ――倒され、倒れるかも知れない。
       そんな恐怖を糧にしたことがあったかも知れない。
       だから、死に場所は、死処墳墓はあって欲しかったし、
       拘る時代の人である。
       芭蕉庵の横、通路を挟んだところに、句碑がある。



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         旅に病んで夢は枯野をかけ廻る  芭蕉


       死は、我がものだが、我がものとなったなった瞬間、
       我がものではない。
       有る確かな死を前になお急ぎ生きる芭蕉がいる。
       死よりも、死へ辿り着く生のありようにしか
       己はない。
       芭蕉の夢は相変わらず厳しく
       己が孤独な「生」を追い求めているようだ。
       


                                                             つづく