■ 義仲寺 ■ - 4 -

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               ジョウ   ハエ       
           木曾の情雪や生ぬく春の草   芭蕉

       元禄四年、「無名庵にての作」である。
       新しい立派な無名庵が義仲の供養塔の後ろに建っている。
       その昔は方丈程度の廬だったろう。
       芭蕉はそこに何度も長逗留している。

       以前、半世紀前までは
       冬になると何度も雪が降ったものだ。
       そんな中に「春の草」が芽を出して緑鮮やか。
       梅でもなく、なもない「草」である。
       厳しい寒さの中で果てることなく生き続けている。
       それがそのまま、芭蕉の中に住む「義仲」の思いだ
       というのだろう。
       歴史の中に滅びながら
       芭蕉の中に生き続ける「義仲」。
       ちょっと憶測するのも難しい。
       「木曾殿と背中合わせの寒さかな」にはない
       血が流れている。

       その横に芭蕉は眠りたかった。
       だから弟子たちは
       師の亡骸を即刻大阪からここへ運んだ。
       義仲の塚の横、一間あまり離れて
       芭蕉の墓がある。


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       幾種類もの、
       義仲の塚の前にあったのと同じように
       菊が、



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       さらに、生けたばかりのように鮮やかな花までも
       供えてあった。


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       義仲の方は宝筐印塔の供養塔であるが
       芭蕉のは墓である。


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       墓石には「芭蕉翁」と彫ってある。
       字は丈草の筆だという。
       「翁」とは、もちろん
       芭蕉が五十一歳でなくなったからであろうが、
       芭蕉は早くから
       三十代からだったか、自らを「翁」と言っていた。
       現代人の時間感覚や、
       寿命感覚とは違う。
       ――いつまでも生きられるものではない。
       ――いつ野垂れ死にするか……
       芭蕉はいつも呟いていた。
       私はそう思っている。



                                                             つづく