猿之助挿話


       猿之助挿話



   ■ 1
   随分以前のことになる。
   12月も末、若狭の地磯「魚見の鼻」へ釣行となった。
   雪がちらついていた。
   日が昇って間なしに目的地を目前にしたとき、
   私たちは車を急停止させた。
   なぜなら、野猿がひとり、道を塞いだからである。
   野猿の男(ボス)は私たちを睨んで動かない。
   いや、私たちと言うより車に対峙しているみたいだった。
   ものの2、3分のことであったろう。
   その間、若者や女子供、乳飲み子を抱えた母親が
   次々と、駆けるようにして男の後ろを横切って行った。
   なにか合図でもあったのか、男がピクッと後ろへ気を向けた。
   そして悠然と、
   決して慌てず、堂々とした態度でやおら腰を上げ、
   ――世話ぁ かけちまったな…
      ごめんよ。
      通っていいぜ…。
   と言ったかどうか、身軽に崖をよじ登って消えていった。
   私たちは異口同音に
   「大したものだ」と小さく笑った。
   ――人間もああでありたいものだ。
   友人の思いも同じであったに違いない。

   ■ 2
   今年はいやに野生動物に出遭う。
   それだけ私がうろついていることになろうが、
   それにしても多い。
   おかしい……。
   鹿に六回。
   兎一回、
   熊、一回。
   野猿は数え切れない。
   私がうろつきすぎなのか、
   それとも人為的自然の終末的結果なのか……。
   おそらく双方だろう。
  
   ■ 3
   奥伊吹からの帰りだった。
   坂道をゆっくり下って次の村へ入りかけたときその男、
   猿之助(仮名、年齢不明)に出遭った。
   ――あれェ……、今日もやあ…。
   前回の帰り道でも同じところで出遭っていたのだった。
   私はほくそ笑んだ。
   今日は、助手席に望遠レンズ装着のカメラを用意していたからだ。
   いい紅葉の景色があれば撮るつもりでいたのだ。
   車を停止してカメラを取ろうとした、そのとき、
   何匹ともしれない野猿が叫ぶようにして車の前後を駆け抜けていった。
   慌てて左を振り向くと若い猿が柿の実泥棒するのと逃げるのに必死。
   撮る間もなかった。あっという間のことだ。
   道路に数個、囓りかけの実が転がった。
   ――逃げられたかぁ……
   脱兎脱猿。
   見事な逃げ足。
   ――仕方ない……。
   私はまた車を動かそうとしてふと右遠方を見ると、…いる!
   いるではなすか!
   野猿の群れだ。
   ……?
   よく見ると小猿ばかりだ。


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   まるで保育園か幼稚園だ。
   そばには保母(正しくは保育士という)さんのように
   雌猿が面倒を見ているという風。


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   なんとかカメラに収めたのはそこまでだった。
   騒ぎに気づいた彼らも急いで移動し始めた。
   ……だが動きがゆっくりしている。


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   しかも、なぜかみんなが左の方向を気にかけている様子だ。
   (このとき、私はそのことに気づいてはいなかった。)
   ――これで、逃げられたな。
   落胆と言うほどではないがちょっと惜しい気分が残った。
   仕方なく車を進めると、
   ものの数秒も経たないうちに猿之助が…50メートルほど向こう、橋の傍に!


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   私は俄然闘志が湧いてくるのを感じた。
   私は車を最徐行させた。
   ――遠すぎる。
   私は猿之助がまたどこかへ逃げてしまうのを懼れて焦った。
   が……
   ……?
   なにかがいつもと違っていた。
   (その異常に私はまだまだ気づいていなかった)

   
   
   女房のまさ美(仮名、年齢不明)がなぜか突然私の車に近いガードレールの上に現れた。
   ――エッ…!?
   あり得ないことが起こっている。
   逃げなければならない事態の中で野猿が人間(私)のそば近くに現れるッ…?!
   ――ラッキー !(^_^)/~~~
   (後から気づけば、私はもっと冷静に状況判断すべきだったのだ。
    このときはただただ喜んでいた。)



   まさ美は猿之助に情けない声で話しかけた。

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   「ねえ、あんたぁ。どうしよう……?」
   「フン! おまえ、それで母親かイ! えっ?」
   猿之助の怒りは並ではなかった。
   「だってぇ…」
   「だっても糞もあるか!」

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   「堪忍してぇ」
   「堪忍だとぉ!? そんなことを言ってる場合かい!
    おめえみてえな女は初めてだ。
    馬鹿にもほどがある!」
   「どうしたらいい……?」
   「どうするもこうするも、おめえの知ったこっちゃねえ。
    とっと消えな。」
   「……」
   「あっちへ行けってんだ。ついてくるな!」

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   まさ美は猿之助にそこまで言われても返す言葉がなかった。
   ただ、自分自身が情けなくなるばかりだったのだ。
   「(……あんたぁ)堪忍」
   悄然とうなだれるまさ美であった。
   猿之助はそんなまさ美を後にして次第に遠ざかって行く。
   まさ美の目から涙が零れた。

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   ――あんたぁ~、許してェ~。
   まさ美は大きな声で、しかしそれは胸の中だけで叫んでいた。
   ――お願い。
   呟くように祈った。
   ふと振り向くと、猿之助がこちらを見ていた。
   猿之助には、まさ美の声が聞こえるのだ。
   強く罵ったものの、やはり可愛い女房だった。
   ――いいから、早く行きな。
   ――大丈夫……? 私、心配で……。
   ――早くしな。
   まさ美は促されて、後ろ髪を引かれるように
   仕方なく、ぐずぐずした動作でガードレールから下りると
   畠への土手に姿を消した。



   ――なんという幸運。
   私はいつ猿之助らが逃げるかと心配しながら
   何回かシャッターを切っていた。
   と、またしても異変が…!
   猿之助が私に近づいて来るではないか!
   私はやや興奮しながら猿之助にカメラを向けた。


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   「よォ、ニイさん。
    そんな安モンのカメラでワシを撮ろってか?
    …おめえさん、肖像権ってのを知らねぇな。
    だから
    《人間 猿の成りの果て》ッてぇんだ。
    やることが、なっちゃいねえ」
   ――おぉ~ラッキー……。
   私の手はわずかに震えていた。
   興奮からだけではない。
   人間が猿に襲われたという話がなくはない。
   笑い話の種にはいいが笑われるのは御免被りたい。
   一瞬の間に複雑な思いが駆けていたのである。
   「馬鹿だねぇおまえさんも……」

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   「まあ、いいや。
    折角撮るんなら上手く撮りな。
    そう震えてちゃあ、…禄なもん撮れねえぜ。
    レンズばっかり磨かずに
    もうちと、肝っ玉磨いた方がいいぜ」
   私の手ぶれ写真は常習だ。
   ――脇を締めて……脇を締めて
   何度も呪文を唱えていた。
   「サービスだ。
    ワシのケツだけでもしっかり撮るんだな」
   猿之助は眼前5mほどのところでクルッと向きを変えた。
   そして次第に遠のいて行く。

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   20mほど離れると、猿之助は道路に降り立って
   じっとこちらを見つめている。
   動かない。


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   ――あッ。
   私は思わず叫んでいた。
   ――思い出した!
   私はやっと、雪の中で動かなかった野猿猿之助と重なったのだった。
   私は急いで猿之助の周りに視界を広げた。
   遙か左に!
   ちょうど、子猿がひとり柿の木から飛び降りる瞬間が目に入った。
   後は脱兎脱猿。
   子猿は転ぶがごとく見え隠れしながら
   いつの間にか猿之助の後ろを駆け抜けていた。



   子猿がまさ美の胸に飛び込んでいくのを見届けた猿之助は、

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   悠然と、
   決して慌てず、
   堂々とした態度で
   やおら家族のいる方へ歩み出した。

   「ニイさん。迷惑かけたな。
    気ィつけて帰ってくんな」



   と言ったかどうか……。
   私が一本取られた格好に違いはない。
   それにしても、猿之助は大した奴だ。

   ■ 4
   あとで、まさ美のしょげた顔の写真を見るたびに、
   私は笑いがこみ上げてきて仕方ない。
   猿回しの芸ではない。




                                                            おわり




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